祖母が亡くなりました [自分のこと・思うこと]
今日、祖母が亡くなりました。
98歳でした。
入院中の祖母が下顎呼吸になったと連絡があったのは3月14日でした。
下顎呼吸って末期症状だという知識はあったので、翌日のうちに札幌に行こうか考えたのですが、何度も主治医の私見を裏切り奇跡を起こしてきた祖母なので、またなんとか持ち直すのではないかと思い、翌日は仕事に専念し、今日朝イチの飛行機で札幌に行くことにしました。
朝の段階では父に11時まで持つかな、と言われていたのですが、11時頃病院に着くと苦しそうな表情ではあるけど数値は安定しているとのこと。
安定しているので、2日前から病院に交代で張り付いていた父の兄妹たちは夜の見守りに備えて仮眠に帰り、わたしと母だけ病院に残っていました。
とりあえずみんなが休めただけでも来て良かったんかな、と思いながらモニターを見ていると、ずっと安定していた酸素濃度が徐々に下がり始めました。
酸素濃度が96になると、ちょっとしんどいんじゃない?と思いつつ、ナースステーションでも同じモニターを見ているはずなので、看護師さんがとんでこないうちは大丈夫なんだろうと思いモニターとにらめっこ。
そのうち90を下回り、心拍数も減ってきて、さすがにおかしいと思いながら母にナースコールしてもらいました。
なかなか応答してもらえず、突然酸素濃度が0になり、慌ててナースステーションに走りました。
来てくれた看護師さんは、呼吸が弱くなり酸素濃度を拾えなくなっていると言います。
仮眠していた父と父の兄妹たちにも電話しましたが、その間血圧を測っていた看護師さんが血圧ももう測れないほど低下していると言います。
主治医の先生も来て、なるべく声かけてあげて、と言うので母と二人で泣きながら
「みんなもうすぐ来るから頑張って」
「おばあちゃん、もう少しだから頑張って」
と呼び続けました。
でも、15時35分、再び病室に来た先生に、心臓が止まりました、と言われました。
酸素濃度の低下に気づいてから15分も経っていなかったと思います。
瞳孔が開いた15時42分が死亡時刻、伯父と叔母たちが病室に着いたのは45分でした。
あんなに頑張っていたのに、こんなに早くに逝ってしまうなんて。
すごくショックでした。
先生が、患っていた胃癌の痛みに苦しむこともなく逝かれたと言ってくれていたのが救いでした。
わたしは子どもの頃、病気になるたびおばあちゃんのところに預けられ、おばあちゃんと折り紙でやっこさんとやっこさんのお家をつくり、やっこさん人形遊びをするのが大好きでした。
高校生の時も、高校とおばあちゃんちが近かったので、部活までの空き時間に昼寝させてもらいに何度も寄らせてもらいました。
いつも明るくて、誰にでも分け隔てなく優しくて、どこでも人気者だったおばあちゃん。
病院の隣にある祖母がお世話になっていたグループホームの方たちも、代わる代わる挨拶に来てくれ、よく頑張りましたね、と声をかけていってくれました。
最後までみんなに愛されて旅立って行きました。
下顎呼吸になって、酸素マスクして、心拍数も高くて、それでも力つきるギリギリまで必死で生きようとしていたおばあちゃん。
おばあちゃんの生き様を最後まで側で見れて良かったです。
おばあちゃん、
おばあちゃんの孫として恥ずかしくないよう、わたしも自分の命を大切に、しっかり前を向いて生きていきます。
天国で、いつもの笑顔で見守っていてください。
98歳でした。
入院中の祖母が下顎呼吸になったと連絡があったのは3月14日でした。
下顎呼吸って末期症状だという知識はあったので、翌日のうちに札幌に行こうか考えたのですが、何度も主治医の私見を裏切り奇跡を起こしてきた祖母なので、またなんとか持ち直すのではないかと思い、翌日は仕事に専念し、今日朝イチの飛行機で札幌に行くことにしました。
朝の段階では父に11時まで持つかな、と言われていたのですが、11時頃病院に着くと苦しそうな表情ではあるけど数値は安定しているとのこと。
安定しているので、2日前から病院に交代で張り付いていた父の兄妹たちは夜の見守りに備えて仮眠に帰り、わたしと母だけ病院に残っていました。
とりあえずみんなが休めただけでも来て良かったんかな、と思いながらモニターを見ていると、ずっと安定していた酸素濃度が徐々に下がり始めました。
酸素濃度が96になると、ちょっとしんどいんじゃない?と思いつつ、ナースステーションでも同じモニターを見ているはずなので、看護師さんがとんでこないうちは大丈夫なんだろうと思いモニターとにらめっこ。
そのうち90を下回り、心拍数も減ってきて、さすがにおかしいと思いながら母にナースコールしてもらいました。
なかなか応答してもらえず、突然酸素濃度が0になり、慌ててナースステーションに走りました。
来てくれた看護師さんは、呼吸が弱くなり酸素濃度を拾えなくなっていると言います。
仮眠していた父と父の兄妹たちにも電話しましたが、その間血圧を測っていた看護師さんが血圧ももう測れないほど低下していると言います。
主治医の先生も来て、なるべく声かけてあげて、と言うので母と二人で泣きながら
「みんなもうすぐ来るから頑張って」
「おばあちゃん、もう少しだから頑張って」
と呼び続けました。
でも、15時35分、再び病室に来た先生に、心臓が止まりました、と言われました。
酸素濃度の低下に気づいてから15分も経っていなかったと思います。
瞳孔が開いた15時42分が死亡時刻、伯父と叔母たちが病室に着いたのは45分でした。
あんなに頑張っていたのに、こんなに早くに逝ってしまうなんて。
すごくショックでした。
先生が、患っていた胃癌の痛みに苦しむこともなく逝かれたと言ってくれていたのが救いでした。
わたしは子どもの頃、病気になるたびおばあちゃんのところに預けられ、おばあちゃんと折り紙でやっこさんとやっこさんのお家をつくり、やっこさん人形遊びをするのが大好きでした。
高校生の時も、高校とおばあちゃんちが近かったので、部活までの空き時間に昼寝させてもらいに何度も寄らせてもらいました。
いつも明るくて、誰にでも分け隔てなく優しくて、どこでも人気者だったおばあちゃん。
病院の隣にある祖母がお世話になっていたグループホームの方たちも、代わる代わる挨拶に来てくれ、よく頑張りましたね、と声をかけていってくれました。
最後までみんなに愛されて旅立って行きました。
下顎呼吸になって、酸素マスクして、心拍数も高くて、それでも力つきるギリギリまで必死で生きようとしていたおばあちゃん。
おばあちゃんの生き様を最後まで側で見れて良かったです。
おばあちゃん、
おばあちゃんの孫として恥ずかしくないよう、わたしも自分の命を大切に、しっかり前を向いて生きていきます。
天国で、いつもの笑顔で見守っていてください。