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映画「Foujita」と「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」 [自分のこと・思うこと]

先日、ものすごく久しぶりに映画をみました。
小栗康平監督の「Foujita」。

小栗監督の作品は難しくて一度見ただけではなかなかわからないというのは、周囲からよく聞いていて、今回のFoujitaも理解できるかなぁと思っていたら、先に見た方から「内田節さんの『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』という本を読むといいよ」とアドバイスをいただきました。

タイトルも面白そうなので、早速楽天ブックスで注文。
日本人の自然観の考察から歴史そのものについて考察するこの本、なかなか面白くすぐに読めてしまいました。
そして事前学習を終えてから観た「Foujita」
圧倒的な映像美は評判通りでしたが、それだけでなくこの本を読んでいたからこそ感じるものがありました。

内田さんの本の中で印象的だったのは、
歴史は必ず中央(国家)からみたものであり、中央にいる誰かの「客観」と呼ばれる主観に基づくものであり、過去は現代の価値基準からみた「遅れたもの」として書かれる。
しかし、その歴史の中に、中央の発展から取り残されたり犠牲になったものからみた視点はない。
…という考え方でした。

例えば近代化は「便利な世の中」を享受している現代人からみた「発展の歴史」だけど、その陰で公害問題に苦しんだり、農地や生活の糧になるものをぼろぼろにされた人たちにとっては、豊かな自然の「後退の歴史」だった・・・という視点はフォーカスされないということ。

今、価値基準となっている物差しそのものに疑問を投げかけるところが面白い本だったのですが、それを頭に入れてみたFoujitaの映画後半、戦争が激しくなっていく日本でのシーン。

ここで描かれるのは、まさに中央の歴史には全く扱われない村人たちと藤田。
戦争が激しくなり、東京から疎開した藤田がお世話になった家には、大切にしてきたお寺の鐘や自宅の屋根のトタンまで軍に奪われていっても何も言わずにいつもと同じように黙ってお茶を飲む老夫婦がいます。
黙っていることしかできない年老いたお母さん。
でも、赤紙を受け取った息子の出征前にだけは、腹の底から絞り出すような声で「死ぬな!」と声をあげます。

中央の価値判断で進んでいく世の中の変化に、声をあげて反対することはできず、耐え続けている人たちがいること、でも自分の一番大切なもの、息子の命だけは奪われることが許せない、そんな戦争への憤りと抑圧された怒りを感じる短いけど重い場面でした。


それが、小栗監督の本当に伝えたかったことかどうかはわかりませんが、わたしにとってこの映画は、戦争に突入していく歴史の中で、全くフォーカスされることのない、でも確かに存在している人間の歴史を描いたもののように思えました。
とても主観的で、とても精神的。
でも、その人にとってはまぎれもない真実であり、歴史そのものである。

まとまりきらない文章になってしまいましたが…
深いです。
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